李琴峰の「彼岸花の咲く島」は女性の統治する不思議な島を描いた小説

2月20日、日曜日、とても良い天気になりましたが、少し寒く感じられました。

特にこのところ日曜日に行くことが定番になていた図書館へ予定も今日はないので、一日家に居ることにしました。

昼過ぎに、今日はイオンが5%サービスデーなので、妻が買い物を兼ねて散歩に出ました。

名古屋の天気は,晴れ、最低5度、最高10度、風速8m/s、湿度61%、穏やかで静かな一日でしたが、何故か寂しさを感じさせる日でした。

李琴峰の「彼岸花の咲く島」を読み終えました。

ノロと呼ばれる女性たちが、祭祀と政を司る架空の島の物語です。

島民が話す日本語と中国語が混じった二ホン語と、女性だけが使うことを許されている古語である日本語の女語、漢字が排除されたひらがな・カタカナの日本語と英語のヒノモトコトバの3つの言葉が、物語の中で使いわけられます。

この3つの言葉そのものが、現在の日本語へのアンチテーゼになっています。

美しい日本語とはどのようなものかを考えさせてくれます。

漢字とひらがな、カタカナが上手く配され、ある概念を漢字という中国から渡来した文字で表現できる日本語の美しさを実感させてくれます。

悪戯に英語を用いる現代の日本語の使われ方について、これで良いのかと考えさせてくれます。

文化的に優位な国の言葉が、次第にコトバを支配していくことが如実に語られているような気がします。

かつては中国から来た漢字による漢文が主体であった時代があり、時が変わって現代においては、米国から溢れ流れてくる英語・カタカナ言葉の氾濫に繋がっているように思います。

主人公は、船が遭難して、島に流れ着いて宇美と名づけられた少女と、島で生まれ育った少女である游娜の2人です。

ノロが統治する島は、女性が主体となり、女性に対して優しい一種理想郷のようなイメージの共同体として描かれています。

物語の中では、かつて野蛮な男たちが、戦に明け暮れ、島を殺伐としたものとしてしまったことから、女性に政を明け渡したいきさつが歴史として、大ノロからノロになる試験に合格した宇美と游娜に語られます。

自分の子供であるが故に、無条件に慈しむ母性本能などを無視した、この島の共同体のプロットですが、では一体理想的な社会とはどういうものだろうと、改めて考えさせる小説の読後感でした。