私も高齢者の域に近づきつつある

10月28日、金曜日、早朝6時半ゴミ出し、もうすっかり秋らしい外気温です。

街路樹の下を、同じ背格好のちんまりした女子中学生2人が並んで歩いていました。

後ろから、ひょろりと痩せて背の高い、黒いワイシャツ姿の男子中学生が、猫背でうつむきながらついてきています。

女子中学生2人が、同時に振り返り、男子中学生に何か言っていましたが、彼はうつむいたままで、2人の間に入り、3人は再び並んで歩き始めました。

女子中学生は多分双子の姉妹で、男子中学生は姉妹の弟だったのかもしれません。

家でも、テーブルに座った2人の小さな姉が、でくの坊のような弟に、ああするのよ、こうするのよ、と一々指図している姿が目に浮かぶようです。

今日の名古屋は、晴れ、最低12度、最高22度、風速0.83m/s、湿度45%、昼間はポカポカ陽気となり、今ここに居る不思議を感じながら、午睡にまどろみます。

現在、紹介状なしで、大病院へ行くと高額な選定療養費という特別な料金が取られます。

初診の場合は7,700円以上(歯科は5,500円以上)、再診の場合は3,00円以上(歯科は2,090円以上)といいますから、けっこうな金額です。

大病院は救急や重い症状の患者の治療を担う役割を持っているとして、2015年から大きな総合病院を、病床400以上を特定機能病院、病床200以上を地域医療支援病院と定めて、特別料金徴収を義務化したようです。

随分前のことのように思えますが、大病院の待合室が高齢者の社交場のように賑わっていると揶揄されたことがあったのを思い出しますが、何となくその対策であったような気もします。

大病院の医師の負担軽減と、救急・難治療に集中する趣旨は良く理解できますが、小さな個人病院の運営支援にもなったかもしれません。

国の目論見通り、中小医院の待合室には高齢者の姿が常に多くありますが、結局、様々な合併症を抱え症状の重くなった高齢者は、設備の無い小さな病院では手に負えず紹介状を持って大病院へ送り込まれるので、大病院の待合室は今でも、高齢者で溢れかえっています。

どの病院へ行っても、待合室に高齢者が多い現状は、今も昔もさして変わりません。

そういう私もその一人となりつつあるわけですので、他人事ではありません。

高齢者にしてみれば、日々の痛い、辛いに対して藁をもつかむ思いで、医師の力に縋るために病院へ通っています。

不摂生や生活習慣改善努力不足による自己責任といって切り捨てられたら、たまったものではありません。

誰しも、不快も痛みもなく、元気に毎日を過ごしたいという欲求は同じです。今も昔もピンピンコロリが理想であることは変わりません。

昔のように、親・子・孫世代が一緒に一戸の家に住む大家族の形態は、現在ではほぼ皆無です。

高齢者は、益々、自己の力で自立して生活を営まなければならない必要に迫られています。

高齢者とは、現在では健康年齢を過ぎるであろう、いわゆる後期高齢者75歳以上のような気がしますが、今でも60歳以上が十把一絡で老人と表現されている現状はあります。

自分事として、その年齢を現在進行形で通過しつつある今、60代、70代、80代、90代、皆同じであるはずがないだろうと言いたくなります。

しかし高齢者の域に近づきつつある私にとって、一体どこまでこのまま行けるのか分かりません。

私か妻のどちらかが認知症になってしまったら、といつも不安を抱えながら,細々とした年金生活を送っています。

もし認知症になってしまったら、遠く海の近くにある老人施設で、静かに安らかに眠るように終えたいと思うのは、これも多分に小説の影響かもしれません。