今村夏子の芥川賞受賞作「むらさきのスカートの女」は見続ける「わたし」という女の一種異様な世界を描いている

青空にきらきらした日の光と、モクモク湧き出た白い雲、はじけた夏がやってきました。

今日、7月17日、東海地方も梅雨明け宣言が出ました。

ギラギラ、ワクワク、ウキウキが混然一体となって、あちらこちら動き回りたいのですが、コロナ感染防止で相変わらず自粛が求められ、皆足止めを食っているようです。

名古屋の今日は、晴れ、最低24度、最高32度、風速1.67m/s、湿度53%、空調の快適な中から窓の外をみれば、お祭り騒ぎのような夏盛りです。

先日、今村夏子の芥川賞受賞作「むらさきのスカートの女」を図書館から借りてきたのですが、妻が先に読みました。

妻はたった1日で読んでしまったのですが、私は3日かかりました。

妻の感想はよく分らないというものでしたが、私の感想は、「むらさきのスカートの女」をずっと追い続ける「わたし」が不穏で一種不可思議な存在と感じられました。

男が30前後の女を見る目と、同性の同じくらいの女が見る目は全く異なるのですが、正に同じものを見ていながら全く別の世界を見ているのかもしれません。

この小説は、「追い続ける目」がテーマなのではないかと感じられました。

小説の中では「わたし」が「むらさきのスカートの女」を執拗に追うのですが、実は読者も「わたし」を通じてみているという2重3重の、あたかも向き合った鏡のエンドレスな世界を反復往復している感覚にとらわれます。

読み終わって、現実世界でも、この「わたし」のような女が、どこかに棲息していて、何食わぬ顔でじっと見ているのではないかと、周囲に目を見やるのですが、そんな馬鹿なと打ち消してすぐに自分の日常世界に戻ってきます。

この「わたし」は自分と同じような孤独で貧しく小心な女の存在を求めています。

従って男の私には分からない、翻ってこの「むらさきのスカートの女」の一種異様な世界は、男の私には100%理解できないのかもしれません。

私はそのような「わたし」という女の世界を小説という虚構の中で垣間見ただけなのかもしれません。