良く晴れて、風がすーと通り過ぎて、すこぶる心地よい日和です。
妻が梨を1個200円で買ってきた。
ちょっと考えられないくらい高い値段だが、妻がどうしても食べたいというのなら仕方ないかと思う。
このところ、野菜や果物の値段が高騰しています。
どうやら、しばらく前まで続いた長雨のため、食料品の生育が悪くなっているらしい。
原因は異常気象だという気象庁の説明も、何度か聞いていると、もう何とも感じなくなってしまうほどの最近の異状です。
今日の名古屋は、晴れ所により曇り、最低19度、最高29度、風速1.11m/s、湿度71%、最低がとうとう10度台になりました。
昨夜Gyaoで観たのは、「K-19」、旧ソ連の原子力潜水艦の事故の実話にもとづいて制作された映画でした。
主役ハリソン・フォードが艦長を演じ、謹厳実直で苦悩しながらも毅然とした態度で、動揺する艦内を制し、乗組員の命を守るべく職務を全うします。
K-19(カー19)は、ソ連海軍最初の潜水艦発射弾道ミサイルを装備した原子力潜水艦でしたが、様々な深刻な事故を起こしたことから、ウィドウ(未亡人)・メーカーという不名誉なニックネームが付けられていました。
1961年7月4日、艦長ニコライ・ウラジミロヴィッチ・ザテエフ大佐の指揮下、グリーンランド付近の北大西洋上を航行していたとき、同艦は原子炉冷却材システムにトラブルを起こし冷却水漏れ事故を起こしました。
K-19は、幾つかの故障が重なって長波無線システムが使用不能になり、モスクワに指示を仰ぐことはおろか救援の要請もできない状況に陥りました。
技術士官と下士官以下8人からなる対策チームは新品の冷却システムの応急修理をするために高線量の放射線管理区域に長時間留まることを余儀なくされました。
映画『K-19』ではメルトダウンを防ぐため過熱状態の原子炉に飲料水タンクの水を魚雷を分解してつなぎ合わせたパイプで送り込み、原子炉の冷却を試みました。
映画の中では、放射線防護服が在庫切れで艦内に積まれておらず、レインコート程度の防護機能しかない化学防護服を着用した作業員を「これで防げる」と騙して作業につかせる様子が描かれています。
全乗組員は高線量の放射線被曝を受け、修理班の1名を除く8人は、人間の致死量の10倍以上にも達する放射線(約45~60シーベルト)の被曝により、1週間以内に死亡しました。
1994年のロサンゼルスタイムズによると、被曝者は仲間に殺してくれるよう懇願したという悲惨な話が伝えられています。
K-19はソ連海軍のディーゼル潜水艦によって、低下した伝動装置の音を捕捉され、同艦との接近が可能となり、生き残った乗員全員は収容され、母港に曳航されました。
その後の調査で、事故の原因は、同艦の建造期間中の初期の段階においてなされた修理中に、右舷の原子炉の主要冷却回路の中に溶接棒からの破片が落ちたためであったとされています。
映画の中でも、反発しながらも艦長を補佐し、事故の危機を救った副艦長は、事故の1年後にキューバ危機のさなか、ソ連潜水艦B59に同乗し、核ミサイルの引き金を引くかどうかの判断を迫られた3人の責任者の内、唯一反対したヴァシーリイ・アルヒーポフでした。
このK-19はこの事故の後、2年もの月日を費やして修理され、艦隊に復帰しますが、その後、1969年11月15日にバレンツ海水深60メートルで米原子力潜水艦と衝突事故を起こし修理を受けています。
さらに1972年2月24日カナダニューファンランド島沖の水深120メートルで、機関室からの火災事故により28名の乗員が死亡し、沈没を除いた原潜事故の中で世界で最も多くの犠牲者を出した事故を起こしています。
1991年6月4日、K-19は再度原子炉にトラブルが発生し、艦に汚染や犠牲者は発生しなかったものの、同艦の退役を決定的なものとさせ、同年同艦は30年に渡る現役を引退しました。
K-19は映画で描かれた1961年の事故の後も何度かの事故があり、退役しましたが、原子力潜水艦は、1989年ノルウェー海でのソ連の「コムソモレツ」の沈没事故(現在もノルウェー・ロシア共同で漏出放射能を定期的調査)、1963年マサチューセッツ州コッド岬沖での米国「スレッシャー号」沈没事故を含め、度々事故を起こしています。
最近、韓国が原子力潜水艦を建造するという話が、度々ニュースで伝えられます。
それらのニュースではあまり書かれていませんが、溶接棒からの破片によって引き起こされたK-19の重大な事故を鑑みれば、日本に近い近海で、仮に原子力潜水艦の事故が発生した場合、海洋汚染など深刻な事態が発生することが懸念されます。