なんと朝5時に目が覚めて、トイレに行きどうしようか迷いましたが、そのまま着替えてゴミ出しをしました。
冬場は6時でも暗くて、目が覚めることはないのですが、今どきは5時でも外は明るいので目が覚めやすいのかもしれません。
目覚めは時間ではなく、明るさとの相関が大きいように思います。
こんなにも早いのに、既に大きなゴミ袋が網の下に入っていました。
左手の径を真っ赤なTシャツと、白いズボンを穿いた背の高い高齢男性がゆっくりと遠ざかっていきました。
今日の名古屋は、曇り、最低16度、最高24度、風速1.39m/s、湿度57%、雨が降らないだけ良いかと雨女の妻は外出していきました。
妻が外出した後、頼まれた買い物のメモを手にイオンへ行きました。
いつ行っても客が絶えることがない食料品を扱う商売は、相当ひどい経営をしない限り、潰れることはないのだろうなと思いながら、カートを押して店内をぐるりと回ってきました。
後ろから聞きなれない言葉の会話が聞こえたので振り返ると、金髪の女性が小さな息子と話をしているのでした。
国がウクライナ侵攻の避難民受け入れをする発表があって、数百万人を受け入れたポーランドには遠く及ばないものの、既に数百人のウクライナ人がこの極東の日本へやってきたそうです。
日本に身内がいる人はともかく、身寄りのない避難民たちは、東北など受け入れを表明した自治体にバラバラに受け入れられていったようです。
ウクライナ人にとっては、母国から遠く離れた日本の地は異文化異人種の全く異郷の地であり、ロシアが強制収容したウクライナ人たちを強制搬送したというウラジオストクやサハリンよりも更に馴染みの文化から離れた感じがするかもしれません。
いつか戦争が終わったら、母国に帰りたいと思いながら、言葉の通じない日本人社会の中で身を縮こませ心細い思いをしながら、じっとその時を待っている姿には同情を禁じえません。
そのような人々をマジョリティーである日本人社会の中へバラバラに受け入れるやり方は、ロシアの国内各地へバラバラに強制搬送するやり方とそう変わらないのではないかと思えてしまいます。
もし本当に避難民の人々の気持ちに寄り添って考えるのであれば、むしろ国内のある地にウクライナ村を作って、そのような人々を受け入れてやったほうがよいのではないかと思えます。
言葉や文化を共有できるコミュニティーであるウクライナ村であれば、同じ母国語を使うことができ、郵便局やスーパーなども彼らが運用すれば、毎日の糧を得る仕事も言葉の壁なくして得ることができるのではないかと思います。
いつかウクライナから避難してきた人々が帰国した後も、ウクライナ村はその地にとって歴史遺産となるかもしれません。
隣国の大国からある日突然侵攻され、日常の平穏と平和を奪われて、着の身着のままで、遠く極東の地へ逃れてきた人々への思いやりや、心の癒しを与えられる方法を考えてやるべきと思います。