老人は生きがいも無く、漫然と生きている

今日は朝の5時15分頃に目が覚めて、プラスチックごみと不燃ごみを出しに行きました。

不燃ごみは、昨夜妻が使っているアイロンのコンセント部の線が、断線して煙が出たので廃棄することにしました。

修理は可能ですが、線の被膜が全体的に硬化している恐れがあるので、危険なため捨てることにしました。

4年前に何かの記念にもらった新品のアイロンがあるので、ようやくそちらが使えるようになると、妻は喜んでいます。

ゴミ捨てから帰ってきて、再度床に入り、次に目が覚めた時は、妻は実家の母親の検査に付き添うために、既に外出していたので、朝の食事は久しぶりに一人でした。

とはいっても、食べるものはいつもと同じトースト、コーヒーとシリアルで何の変哲もありません。

食事後にスマホをチェックしていると、 「老人は世の中の大半のことには、経験上無関心である」と書いている記事が目にとまりました。

「老人は生きがいも無く生きている。壊れていく身体を嘆きつつ、食べて寝て、漫然とテレビを見て、身体のためにゴルフに出かけ、ジムに行く」

流れるような上手い文章です。

筆者のプロフィールをみると、市の行事に加わっていたり、単行本や小説の文庫本を出しているので中々のキャリアを持った人のようです

歳をとったと周りから言われるようになった私にも、この文章はぐさりとくるところがあります。

この記事の筆者が、自分の身において、このように感じる毎日を送っているのか、ただ一般的に老人とはと、文章で表現してみせただけなのか分かりません。

と思いつつ私自身について考えてみると、私は定年退職してから、もっぱらテレビは見なくなってしまったし、お金が無いので、ゴルフへもジムへも行けませんが、そのかわり毎日パソコンに向かってブログを書くことを趣味とするようになりました。

「壊れていく身体を嘆きつつ」は、私の場合、定年退職前も後も大きく体調が変わったわけではなく、夜遅くに帰ってきて夕食を摂って寝る生活や仕事のストレスが無くなった分、体調はむしろ良くなったと言えます。

多分この文章でぐさりとくるのは、「老人は生きがいも無く、漫然と生きている」ということに尽きるように思います。

何か世の中、或いは誰かの役に立つことで存在意義を見出せなくては、「生きがいもなく、漫然と生きている」に過ぎないということでしょうか。

この筆者はこの文章を、ネットを介して発することによって、私を含めて、うつらうつら惑う夢想の中に漂う、世の役に立たない老人たちの脳を刺激したことでしょう。

彼らが、この筆者の記事に触発されて、何かを考えることがあれば、この記事には大きな意義があります。

この記事の結びは、超大国の米国や大国になった中国の遅れた健康保険・医療制度に比べて、まだしもこの国に生きている老人たちは幸せであると語っています。

記事の内容は、前半の暗さから、後半はそれでも恵まれているのだよという内容になっています。

まだ恵まれているうちに、老人たちがいろいろと考えることは、それ自体に意義があります。