今日、新元号が発表されて「令和」になりました。
テレビはどこを回しても新年号の話題です。
「レイワ」とは耳慣れなくて、ネットで調べても「例話」が出てくる位ですから、馴染みが無くて当たり前かもしれません。
万葉集から採られたらしいですが、私には万葉集もあまり馴染みがありません。
私は「非国民」かもしれません。
これから万葉集を分かりやすく解説をした本が売れそうです。
新元号の響きは濁音や半濁音、拗音でもなければ促音、はたまた長音でもないので、自己主張しない耳に心地よい音と言えるかもしれません。
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午後から妻と車で平和公園へ桜を見に行ってきました。
残念ながらこのところの寒の入りの寒さのためか、まだ3分咲きで、後日出直しとなりました。
平和公園へ来たついでに、妻のまだ健在な両親が買ったお墓の様子を見てきました。
いつ来ても平和公園の広さには驚かされますが、なぜこんなにも多くのお墓を一か所に集めたのか、私には謎です。
世代の違う人々が混じり合って生きている生活空間が自然であるように、生の延長としてお墓も生活の喧騒の近くに小ぢんまりと在って、人々が極々普通に訪れる場所ではないかと思います。
あまりに多くのお墓がある光景は、異常なものとして、目に映ります。
そのあまりの多さに、いつかこの地上が見渡す限り墓標で埋め尽くされてしまうような妄想を抱かせます。
あるいは何万年経って人類が滅んだ後、この地上を発掘する人類ではない別の生物がこの夥しい数の石碑を発見した時、どのように思うのだろうかと想像してしまいます。
今日の青空はどこまでも碧く、寒々しい桜のつぼみは、静かな霊園の中で寂寥を感じさせます。
何となく霊話のようなお話になってしまいました。